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明治20年の頃、土屋鴎涯戯画「磯釣」の中で「垂釣筌」で云う上岩に分類されている長磯と云う岩二才の沸きに出会った話が出ている。湯野浜温泉に逗留していた鶴岡の奥津伝次郎君と云う者が二才の沸きに出会い、近くで買い求めた手繰蝦(テグリエビ)で30枚を釣ったとある。さらに温泉に戻って雄五郎君と云う者に五蝦(ゴエビ)をどっさり持って、明日の朝早く来いと電報を打った。そしてその両名は、長磯に出掛け見事70枚を釣り上げたと云う。その頃二才を6〜7枚釣った竹内兄弟の事が鶴岡で大層評判となっていたと云うのであったから、この二人で70枚というのは特筆出来る大勝負で大評判になった様だ。
垂釣筌で云う上岩とは「大魚が稀に泳ぎ、小魚の乏しくない岩」と表現され、最上位の最岩から二番目にランクされている釣岩である。最岩とは陶山槁木が語る最高ランクの釣岩の事で「大魚が常に躍(おど)り、小魚常に棲む」岩としている。
昔の鶴岡の上磯で長く釣をしていた運の良い釣師等は、一度や二度もしくはそれ以上シノコダイや二才、黒鯛の沸き若しくは渡りに出会っているらしい。運の無い私はこの沸きの黄鯛クラスの小集団のものしか経験したことは無い。所謂渡り黒鯛の群れ=渡りに遭遇したのである。毎年のように黄鯛クラスの黒鯛が11月の初旬の頃、必ず海が時化るとそれほど大きな群れではなかったが、白灯台の内側に非難して入ってくる。それをめがけて40人位の釣り人が待ち構えている。が、バラス人が居るのでバタッと釣れなくなり、しばらくすると又釣れる様になる。それの繰り返しで3〜4時間くらい続いた。數にして5〜6枚は釣った事がある。二才も2〜3時間で30数枚を釣った経験は数度ある。それは撒餌の力で寄せて釣ったもので、沸きと同じように偶々の偶然の力に恵まれたからである。沸き又は渡りと云う物は、シノコダイ、二才、黄鯛が大群をなし移動するもので、その群れが大きい時は海水の色までが変ったと伝えられている。そしてその群れは同じ場所に二、三日逗留し又別の場所に移動する。そんな時の黒鯛の喰いは活発でしばしばハリス切れを起こしたと「庄内釣り」を書いた今間金雄氏は書きしるしている。なんとこの今間金雄氏は磯で六回もの沸きを経験していると云う。
この地方で魚が大群で岸に寄る現象を沸きと呼ぶが、当時シノコダイ、二才、黒鯛が大群で群れをなしてくるのは、秋田県境の象潟の潟からと晩秋になると南下して来るからと信じられてきた。垂釣筌にも象潟の地震で潟が隆起して以来、この沸きがめっきり少なくなったとしている。しかし、明治になってこの沸きが復活した。又沸きと同じではないが、同じ様な言葉に秋田県の男鹿から来ると信じられて来た渡りと云う言葉がある。通称渡りとは、晩秋になると尺前後の黒鯛(所謂黄鯛)が群をなし移動するものである。海が時化ると港内に入って来て大量に釣れた。渡り黒鯛は新潟県にまで渡って行き、其処で越冬する物とされていたのである。そしてその渡りも昭和30年代の八郎潟の干拓で少なくなったと云われ、この神話も長く信じられて来た。
この黒鯛の沸きや渡りという現象は、全国的なものかどうかは分からないが、庄内の渡り黒鯛は銀色の光った綺麗な魚体であることから砂浜沿いに南下して来たと云う伝説を生んだのかも知れない。
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